Hamptons Japanese

この世を去った妹

ハロウィーンがすぐそこまでやってきて、トリック・オア・トリートでにぎわうハンプトンズのストリートの多くの家が、飾り用の蜘蛛の巣や墓石などで墓場やホーンテッドハウスになってきた。紅葉で木々が赤やオレンジや黄色に染まり、暖炉に焚かれた薪やスパイスの効いたアップルパイの香りが空気に漂う季節‥ほんわかしていい感じ。ただ私には、四年前に妹がこの世を去ってからはちょっと寂しい時期でもある。 あの10月15日の寒い朝、私はフェイスブックのメッセンジャーで友達とその週マンハッタンに観に行くショーの予定を立てていた。主演女優のブライス・ダナーからの招待である。ブライスとはその夏イーストハンプトンであったショーのワードローブの仕事をして知り合った。私の仕事ぶりをとても気に入ってくれて、優しくしてくれた。マンハッタンで仕事ができるように手助けしたいと言ってくれて、彼女の新しいショーでワードローブの仕事をしないかと聞いてくれたけれど、私はすでにシェークスピアの『ハムレット』のコステュームデザインの仕事が入っていて受けることができなかった。私を招待してくれたのは、ブライスのような有名人でさえも購入困難だったケイト・ブランシェット主演『メイド』のチケットを幸運にも友達のダイアンBから譲って貰って、ブライスを招待した後だったからだった。開演前に日本食レストランで夕食もご馳走してくれて、冷酒をいただきながら楽しい時を過ごせたので、その週またブライスに会えることをとても楽しみしていた。 いつもの朝のおきまりで、パジャマにぬくぬくローブ姿でレモン湯をすすりながらダイニングテーブルでラップトップの前に座っていた私。そこへ日本からショッキングな電話が入った。残された子供達をずっと見守ってくれている、妹の元彼からだった。妹がその日亡くなって、私の姪と母に付き添って警察署から電話をしていると言った後、泣いている姪に電話を代わった。遅かれ早かれこんな日が来るとは思っていたけれど、現実を受け入れるのは難しかった。頭がパニック状態になったけれど、かわいそうな姪をなんとかなだめたかった。母がそばにいても認知症で頭が働くなっていたから、あまり支えにはならなかったと思う。感情も麻痺しているようだった。母の人生は苦労が多かった。一人で私たち子供三人を育て、祖父母の面倒をみて、その後妹と孫二人も背負う羽目になった。孫二人の世話をすることは母の生きがいになってはいたようだけれど。 私の妹も母と同じで結婚に失敗していた。妹の別れた旦那のことは私はあまりよく知らなかったけれど、ヤクザと問題を起こして、二人目を妊娠中に蒸発したと聞いている。妹家族は実家で美容院を経営していた母と同居していた。妹も美容学校へ通ったものの、中退してバイト以外に仕事をしたことがなかった。私と妹はあまり話をしていなくて、妹が死ぬほど飲んでいたことも知らなかった。ある日「死にたい」とメールが入るまでは。驚いた私はニューヨークから直ぐに電話をした。妹は重度のうつ病に苦しんでいた。話を聞いた後、まだ母が元気で子供達の面倒をみてくれている間に、仕事のためのスキルを身につけるようにアドバイスした。その後時々電話で話したけれど、わたしがうるさく言い過ぎたのか、電話に出てこなくなってしまった。 その翌年、母が完全にボケてしまって家のことをどうしていいか分からない、帰ってきて、と妹が哀願の電話をしてきたので帰国した。認知症レベル1と診断されたという母だったけれど、私にはまだ普通に見えて、妹のことの方がよっぽど心配だった。。付き添って精神科の医師に会ったり、いろいろと溜まっていた用事を処理するのを手伝ったけれど、妹は酔っ払ってハイになっているか、精神安定剤で寝ているかのどちらかであった。妹はその二年後に肝硬変で亡くなったのだ。いつの頃からだったのか、子供達や母を放って当時の彼氏のアパートで過ごしていて、そこで亡くなったようだった。 私は当時『ハムレット』の仕事をしている最中だったし、最悪なことに、家の改装のために借家へ数日後引っ越す予定で帰国するには不都合な時だった。「直ぐに行ったほうがいい?‥それとも少し後で、お葬式前までに行けばいいかな‥?」姪の気持ちを聞くと、思った通りすぐに来てほしいと言うので、そうするしかなかった。電話を切った後、オットにテキストしたら、すぐに家に電話してくれた。オットの存在が本当にありがたい。朝のくつろぎが大混乱になってしまった。深呼吸して心を落ち着かせ、帰国の予定を立てた。 母が物を捨てられず家の中はゴミ屋敷になっていたので、実家に泊まることはできなくなっていた。私は旅行の計画を立てるのには慣れていけれど、この時選んだ安いが狭いチェーンホテルは失敗だった。大浴場と和食の朝食ビュッフェは良かったけれど、陰鬱で夜一人で部屋にいて怖くなった。ネガティブな気配。アメリカに来てから気がついたことであるが、私は少し霊感があるようで、昔から場所によって背筋がゾクゾクしたり、頭が重くなって吐き気をもよおしたことが何度もあった。ホテルでテレビをつけっぱなしで寝たら、ある晩夜中に「ナンミョウホーレンゲーキョー」とカタカナ風に唱えるお経で目が覚めた。テレビでモハメド・アリの葬儀を中継していたのだった。仏教を信仰していたのだろうけれど気味が悪い。私の家族は日蓮宗を信仰していたけれど、日本のお葬式というものはどうしてあんなにおどろおどろしいのだろうか。 日中は妹が亡くなった後の各種手続きを母に代わって動き回っていたため、火葬場へいざ行った時まで妹が亡くなったという実感がまだなかった。母は一度も涙を見せなかった。子供達もその日まで学校へ通っていて会っていなかった。私は妹を亡くした悲しみを家族の誰とも分かち合っていなかったせいか、喪服姿で会場に現れた三人の叔母たちの顔を見た途端、突然悲しみが浮き上がって涙があふれた。妹が入退院を繰り返した費用や治療費で母は貯金を全て使い果たして破産していたため、生活保護のお世話になっていた。葬儀の費用や手配は保護課でしてくださるとのことだったのでありがたかったけれど、御通夜も、お葬式もお坊さんもない、火葬場だけで済まされた。棺の中の死化粧もされていない蒼白い妹の顔を見た時には、かわいそうで泣けた。あんな悲しい死に方は私はしたくないと思った。ちゃんとした葬儀をしてあげられなくてごめんね、と妹に謝って私は泣いた。最後のお別れで欄の花を胸に置いた時、妹の目から涙が‥「感謝の涙だな」母が淡々と言った。その光景は怖かったけれど、美しくもあった。 ハンプトンズに戻ると、ハムレットのキャストやクルーのみんなや私が衣装をデザインするバレエの学校ダンサーたちからお悔やみ状が寄せられた。感謝で心が温まったけれど、ハムレットのオフィーリアの遺体の人形が棺桶の妹を思い出させて、葬儀のシーンを見るのは辛い物があった。忘れるまでにしばらくかかった。 この命日の数日前、夢で妹に会った。セレブ霊媒師のジェームス・ヴァン・プラグによると、亡くなった愛する人が夢に出てくる時、実はあちらの世界に私たちが訪問したのだそう。命日の日、ラインで甥、姪と弟にグループラインしてみた。甥からだけ反応がかえってきた。甥も夢で母親にあったらしい。「何か言ってた?」と聞くと、「ごめんね、ってマジで言ってた。」と甥。 甥には必要だった言葉だったと思う。妹のことは悲しかったけれど、あちら側では大丈夫だと私は信じている。妹のそばにいてあげなくて後悔はある。でもこれも人生。今は妹があちらから家族を見守ってくれているだろうから、私は自分のできる限りのことをしていけばいいと思う。 みなさんも、どうぞ与えたれたものを大切にして、愛する者には愛情を日々伝えられますように‥! 愛を込めて y.

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